月光族

感性豊かすぎるお嬢さま雑誌『月光』始末記。LGBTの精神分析的説明など。

LGBTに与うる書 その1  レズビアンへ


LGBTに与うる書 その2 トランスジェンダーへ





フロイトは、性の分類についてこう言っている。「社会的、解剖学的、心理学的という方法があるが、このうち一番難しいのは心理学的分類である」。


今は昔、新宿二丁目に自称トランスジェンダーの「オピニオンリーダー」がいた。女装して、ネットのホームページで哲学者のような自身の見解をまくしたてていた。


ところが、二丁目の人々の顰蹙を買うような事態が生じた。彼は女装子専用の「おさわり映画館」で、おさわりプレイに興じていたのだ。「女がそんなことするか!」と周囲は騒ぎたてたが、本人はどこ吹く風。相も変わらず女装写真入りの名刺をばらまきながら、哲学的理論を主張する。


「男でも女だと言えば女子用トイレに入れる」という現代の問題の種は、昔からすでに撒かれていたのだ。なんとも奇々怪々。カフカの小説のような不条理は、いったいどのようにして生まれてしまうのだろうか?


男が女だと主張することは、素朴に考えて合理的ではない。しかし、この「不合理」というのは人間の無意識への突破口ではないか、とフロイトは考えたのだ。これと並んで、夢というものがやはり無意識を理解する「王道」となることから、研究の成果として「エディプスコンプレックス」を探り当てた。これはフロイト最大の発見と言われている。


コンプレックスが劣等感だと思われているのは、フロイトの共同研究者アドラーの「劣等コンプレックス」に由来するもので、これは本来の意味ではない。コンプレックスとは、「感情を伴って無意識に抑圧された心的複合体」である。やさしく言えば、恨みつらみはあれど、それを表に出すことができず、そうこうしているうちに心の闇にためこまれた鬱憤というようなものである。


五歳前後に、男の子は激しい葛藤を経験する。なぜかと言うと、それまで母親だけを相手に二人だけのハネムーンを過ごしていたのに、父親という競争相手がいることを知ってしまうのだ。おまけに悪友から、「君のお母さんは、夜になるとお父さんとすごいことをしているんだ」と陰口を叩かれる。男の子はどうしたらいいのだろう。力ではむろん父親にはかなわない。加えてこの時期には、快感がペニスに集中しているので、ますます父親にはかなわない。


悩んだ挙句、彼はやがて父親のように強く逞しくなったら、母親のような女性を妻にしようと考える。これを「エディプスコンプレックスの克服」という。しかし、誰もがエディプスコンプレックスを克服できるとは限らない。「母親のようになって、お父さんを寝取ってしまえばいい」。これが二つ目の戦略である。この心理機制を「母親同一化」という。いわば魔術的な一体化である。このような心の闇を引きずっていれば、自分は女なのだという幻想に囚われて女装するようになるのも、ある意味合理的なのである。


この時期よりもひとつ前の「肛門期」と呼ばれる頃は、母親は子供にとって絶対的な存在である。母親は神聖かつ偉大な存在であり、逆らうなど思いもよらない。そのイメージを継承しているのは、SМプレイの「女王様」である。だから女王様というのは、ただ怖いだけでは人気が出ない。たまにはマゾ奴隷をハイヒールで踏みつけながら、「ご聖水」を飲ませてあげるくらいの親切心がなくてはならない。


しかし、この女性イメージは、次のエディプス期(男根期)で180度変わる。女はちょっと目を離せば浮気する「貞節弱きもの」であり、夜には淫乱な獣に変貌する。おちんちんの大きな男になびく。いつも触られたい、見られたいと思っている。だから女を襲うというのは、親切のたまものである、ということになってしまう。まさに痴漢の発想である。この痴漢の数の多さというのは、相当なもので、いまさら言うまでもないだろう。


女の痴漢はまずいないという現実からしても、また痴漢やその予備軍の多さからしても、エディプスコンプレックスは男であることの証しであり、心理学的に男女を区分する強い理由にもなるのではないかと、私は考えている。つまり、男が自分のことを女だといったから女なのではなく、女であるというその主張こそが、男であることの証し、エディプスコンプレックスに由来するということである。


では、男なら必ずエディプスコンプレックスがあるかというと、そうは言えず例外はある。その代表が竹久夢二である。日記によれば夢二自身も、「他の男とは違う」という自覚はあったらしい。画塾には女性が押し寄せたというし、二番目の彼女、笠井彦乃は天使のような可憐さ。大モテだったことに間違いはない。


男がいくら取り繕っても、エディプスコンプレックスの有無は、女は直観的に気付くものなのである。エディプスコンプレックス、極端にいえば「痴漢性」のない夢二が女にモテまくるというのは当然の話である。


夢二が感性豊かだったという裏付けについて触れておこう。それは芸術作品のジャンルの広さである。宵待草で有名な詩はもとより、絵画、エッセイ、膨大な日記に小説まで書いている。これは感情が意識されるからこそできることであって、これは「月光族」に近い、というより月光族そのもののセンスである。


かく言う私も、学生時代には絵を描いて、埼玉の県展や市展に毎回出品していた。小説は「ビスクドール」が代表作だと思っているが、じつは雑誌小説で食べていた頃がある。内容はSМ小説が主で、かの団鬼六氏と同じ大きさのペンネームで雑誌の表紙を飾ったことがある。しかし評判はいまいちであった。フランスの都会小説(私はフランソワ・モーリアックの愛読者である)のつもりで書いていたことが大きな原因と思われる。後で知ったことだが、SМ小説というものは、イメージを膨張させるために、たとえば「浣腸」などという言葉を連発しないとウケない。名前が出た、つまり研究者としての実績になる著訳書は4冊(共著共訳だが)ある。新宿で詩集を売ったこともある。昔とはいえ版画付で50円。もちろん全部売れた。イベント歌手もやっていた。レパートリーは淡谷のり子さんのブルース。



芸術家神経症説という学説がある。感情が抑圧された状態、つまり神経症が芸術を生み出すという考えである。一応理論にはなっているものの、具体例は極めてわずか。感情が抑圧されていれば、無意識にたまっている感情のマグマの吹き出しが芸術作品として現れるという理論に誤りはないのだが、それはあくまでも感情が意識化されるという前提に立つ議論である。つまり、抑圧されたままではなにも起こらないということである。


感情が抑圧されて、神経症という不都合が生じた場合、それを治療するのに何年かかるのか? 「軽いもので14年」とフロイトは言っている。感情が抑圧された状態、つまりレズビアンのような状態から、芸術創作ができるまでの状態になるまで、いったいどれほどの時間がかかるというのか。結局、これは机上の空論なのである。


この無意識に押し込めるという作業、つまり抑圧によって無意識のマグマが噴出するのを防ぐため、自我はエネルギー(カウンターカセクシス)をつかう。これによって自我は疲弊するのである。一般に男は気が弱いとされるが、これは精神分析の理論とも整合性がとれている。


男はギャンブルにはまりがちだが、現実的な女はめったにギャンブルには手を出さない。だからこそ、ギャンブルにハマったときが恐ろしい。だから、ギャンブル狂のマンガの主人公は女のほうが面白いのではないかと思う(「借金漫画」でググってみてね)。


女にモテる方法を伝授するというネットの広告を見たことがある。方法を伝授するだけというなら、これはたったの一言ですむ。「無意識を開放しなさい」。これでいいのである。たとえば男なのに女だと主張するような不合理は、自分の無意識を開放すれば自分で正すことのできる不合理である。もしも世界中の痴漢の無意識を意識化することができれば、世界中から痴漢はいなくなる。女は安心して銭湯やトイレを使うことができる。


じつは私も被害者だ。以前ホームページを立ち上げていたときに、おちんちん動画をぞろぞろ送ってこられた。もっとも客寄せにセルフヌード(至って芸術的なもので、ちっともいやらしくないという評価を受けたが)という悪手を使った私も悪い。やばいことに、ムラゴンのブロガー検索で「さなこ」と検索すると、ホームページの概要が出てくる。ふああ・・・


こんどは知性と教養あふれた文章で勝負するので、この事は水に流します。はい。

しかし、世界中の学者やマスコミがこぞって「無意識を開放しなさい」と言ってみても、これは焼け石に水で、なんの効果もない。心から反省すれば、人間は瞬間的に変わる。これは真実であるかもしれない。だが痴漢には自ら反省する動機など、さらさらない。しいていえば、淫乱女をのさばらしにしておく世の中が悪い。強力なおちんちんの力で女を屈服させない限り世の中は良くならない、というのが痴漢の無意識の主張なのである。そんな新興宗教の教祖はゴマンといる。


仮に反省する痴漢なるものがいたら、いったいどうすればいいか。精神分析の専門医に精神分析の治療を依頼するという選択肢がある。だが、残念ながら全国に二人しかいなかった精神分析医、小此木啓吾先生(私の恩師。モラトリアム人間という造語で有名。ググってね)も、土居健郎先生(『甘えの構造』で有名。当時心理学専攻の私の噂を聞いて微笑んでおられたという。ググってね)も、もうこの世にはいない。それに両先生とも、伝統的な精神分析の治療法を実行していたわけではない。患者を長椅子に座らせて自由連想させるという方法は時間もかかるしお金もかかる。というのも、「お金をとらないと治療が進まない」という、カルト宗教のような現実が実際にあるのだ。これに対しては諸説ある。「医師になるには元がかかっているのだから、高くてもかまわない。断固取るべし」。これも一理ある。しかし、ない袖は振れぬというのも現実である。週に3回から4回、高額な治療費が払える富裕層は限られている。したがって現在では、伝統的な精神分析の治療は実施されていないが、精神分析的な治療をやっている病院はあるかも知れない(ググってね)。


かくて、フロイトに学んだ小澤平作先生、それに学んだ小此木、土居の両先生と続いた日本の精神分析の伝統も、私でおしまい。はい、さようなら、ということになる。


そこで憤懣やるかたなく、硫黄島で玉砕した市丸利之助少将の「ルーズベルトに与うる書」に因んで、「LGBTに与うる書」を書いているという次第です。これからも読んでね!


LGBTに与うる書 その3 ゲイへ






私としては、一番難しい課題です。レズビアンやトランスジェンダーやバイセクシュアルの人たちとは『月光』の文通欄や新宿二丁目を通じて実際の付き合いがあったのですが、ゲイについては実際の付き合いがほとんどありません。だからゲイについてはむしろ当事者の方々から意見を聞きたいと思って書いています。


二丁目はゲイの町。私は体が大きく筋肉質で逞しい、見るからにゲイのひととすれ違いました。その時の感覚はふつうに男性とすれ違ったときとは劇的なまでに謎でした。相手は私のことをまるでいないかのように、たとえぶつかってもすり抜けてしまうかのように無視しているのです。これは痴漢にはなりえない。私が感じたのは、すがすがしいという印象でした。


礼儀もかなり良さそうです。ミックス(男女どちらもOK)だと思って「縄」というお店に入ったら、見るからにゲイというひとがずらりと並んでカウンター席に腰かけているのでした。「ごめんなさい!」と心のなかで謝ってドアを閉めました。お客さんは何も気にかけていない様子。後で聞いたところ、そこは純粋にゲイのお店でSМ愛好家が集まるところ。二階と三階はプレイルームで、みんな血だらけでプレイを楽しんでいるのだそうです。


月光族は基本、男と付き合ったことはありません。だから美化してしまうのです。ボーイズラブの主人公は美少年と三十がらみのいい男。そして自分が感情移入するのは美少年のほう、と相場が決まっています。


でも、それはゲイのひとからすると本道ではないようです。私は友人と二人でゲイ雑誌を買いにいったことがあります。あまりジロジロは見られないので、とりあえず『サムソン』という雑誌を手に取り、さっさと会計を済ませました。


男の同性愛雑誌なのだから美少年が出ているに違いない、と思っていたのですが、内容はまったく違っていました。「デブ殺し」とか「社長責め」などというタイトルで、そこに写っていたのは中年男性ばかりでした。これも後で聞いた話なのですが『サムソン』はゲイ雑誌の本道なのだそうです。


でも、ゲイが男っぽいなんていうことはないのだ、というゲイの感想を読んだことがあります。外見こそ筋肉隆々でたくましいけれども、実際にはみんな女っぽい、いやになる、とその人は書いていました。どうせ最後はひとりだ、生命保険に入っておけ、と但し書きがついていました。こう言っているのは一人ではなく、相当数の人がそう思っているようです。また、オネエ言葉を使っている人もかなりいるようです。オネエ言葉は会話で角がたたないようにするためのもの、つまり営業用だと主張するひとがいます。でも、そのためだけなら、他にも方法はあるはずです。女装する人もいます。


これらのことから考えられるのは、次のような推測です。ゲイにも男の例にもれず、父親と母親との三角関係、エディプスコンプレックスは存在する。でも「母親同一化」があることはあるが、大筋としては表に出すことはなく、それはあくまで「秘密」にすべきものなのだ、と。


ゲイは「やがてはたくましい男になって、お母さんのような奥さんをもらおう」という幼児期の空想、いわゆるエディプスコンプレックスの克服を果たしてはいない。母親のようになって父親を引き付けたいが、それは秘密にしておかなければならない。


つまり、ゲイは「女になりたいが、なってはいけない」という心の闇を持っている、ということになります。この推測は正しいでしょうか?


LGBTに与うる書 その4 バイセクシュアルへ






バイセクシュアルと言っても、私は男のバイセクシュアルとは付き合いがないので、対象は女に限定することにします。


バイセクシュアルというと、レズビアンの性的対象が男にまで広がっているだけで、いわば「欲張り」ではないかと思う人もいるのではないでしょうか? でもまったく違います。実はその反対なのです。具体的な事実として、好みに合う男がいなかった場合、女を性的対象にするといったことが起こります。そうすると、するとこの人は本来は男が好きだし、女でもいい、つまりバイセクシュアルということになります。この場合、バイである当事者の女としてのパーソナリティはべつにストレートの女と変わるわけではない。でもマイノリティだから、LGBTに加えられるというだけの話で、じつはフツーの女だということは多々あるのです。


高校生のときに、同じクラスの「おねえさま」に誘われてカップルになったという例もあります。おねえさまは親切だし、アプローチも熱心。こんな場合、「やさしいし、まっいいか」と思ってしまう女もいるのです。


さらに複雑なことにこの「おねえさま」がレズビアンのタチ(男役)ではなく、「月光族」だという例もあります。月光族も、ただ感性が強いというだけで、基本的にはストレートの女と変わりません。女が二人で住んでいて、自分たちをレズビアンだと言えば、疑う人は誰もいません。でも家の中に入ってみると、そこには男の映画スターやロックバンドの写真がいっぱい。男のヌード写真集をもっていて、「おちんちんが小さい!」なんて批評する始末。月光族は男と付き合わないので、男に対する選り好みには容赦ないのです。


本物のレズビアンのネコ(女役)にしても、目をつぶっていれば相手が男でも女でも同じようなものなので、ネコのような顔をしているだけ、というケースは多々あります。なのでタチはネコの浮気に注意するしかないのです。でも、ネコの浮気は許されません。タチとしては、ネコは貴重な存在です。タチとしてはネコはひとりで充分なのですが、その一人がいないのです。


月光族は原則としてネコになるかもしれないストレートの女ばかりということです。一方、レズビアンの世界は、タチがいなければ成立しない。ニワトリが先か卵が先かといえば、タチというニワトリが先で、卵がネコなのです。


レズビアンはネコがいれば抱え込んでしまうので、レズビアンバーにはネコのいないタチが押し寄せることになる。いったい、ネコはどこにいるのだろう? ネットで『雑誌 月光』でググるとか、『月光』の読者を募集してみるとか、編集長「南原四郎」の名前で検索するとか、この文章をみせて様子を伺うというのもひとつの手段かもしれませんね。


フロイトと女






フロイトの最初の論文『ヒステリー研究』の患者は全員女である。しかしその症状は「焦げたプディングの臭いがする」といった性別とは関係ない内容なので、神経症の治療法としての精神分析は健在である。


フロイトは女が苦手だった。恋敵の芸術家を悪し様に罵ったという逸話もあるが、恋はともかく、女の精神分析は超苦手だったといってよい。


その証拠に、フロイトの論文には女の精神分析に関する記述はほとんどないか、誤っている。LGBTについては、全部読みふけった私の記憶にも、恋人のために自分の命を犠牲にしたレズビアンの話をポツンとしているという印象があるだけ。ましてやバイセクシュアルの記述など皆無である。


しかし、女とはこういうものだ、などと知ったかぶりで語る男の多いなか、フロイトの発言は的確。「女は鍵の開け方のわからない宝石箱のようなものだ」と自ら言っている。


フロイト最大の発見はエディプスコンプレックスだと言われるが、フロイト最大の誤りは、「エレクトラコンプレックス」だろう。男の子には、おちんちんという快感をもとに発生するエディプスコンプレックスがあるのだから、おちんちんのない女の子は「去勢されてしまった」という心的外傷体験がある、という主張である。しかし、フロイトの論文にはふつうならあるはずの「症例」もないし、学会でもこの説は認められていない。


私は昨晩、夢を見た。インスタントラーメンにしきりにお湯を注ぐという夢である。フロイトによれば、これは「昼の残り物」である。私は前日、ある人から「熱中症になるから、水を沢山飲みなさい」と言われたのが原因であると思われる。


「夢は無意識への王道である」とフロイトは言っているが、こんな夢しか見ない私としては、夢分析では無意識のむの字もわからない。なぜか? 答えは簡単である。エディプスコンプレックスがないからだ。


無意識に注意を集中していたフロイトは、女にも男の子が体験するようなコンプレックスがあるに違いないという発想から抜け出られなかった。


女の夢分析については、拙訳書『ドリームパワー』(アン・ファラデー著 時事通信社刊)をお勧めしたい。たぶんもう絶版なので、国会図書館にでも行かないと見れないが。


フロイトの論文「夢判断」には、多くの誤解がある。たとえば細長いもの、蛇、銃、大砲などは、おちんちんを表すといった結論ばかりをひとり歩きさせてしまい、夢をみる過程を理解していないという誤解である。だから、女が蛇の夢を見たというと、フロイトを誤解している人が喜ぶ。彼女は前の日に蛇を見たのかも知れないのだ。


また、フロイトの生きた時代が、ビクトリア時代という、机の脚が淫らだといってテーブルクロスをかけてしまうような、性に厳格な時代だったことも考慮すべきである。このようなわけで、「おちんちん」は夢では細長いものと置き換えられる。


現代では、おちんちんの実物がネットで見られる時代なので、「おちんちん」は夢でも加工されることがなく、そのまま出てきてしまうかもしれない。