親愛なるレズビアン諸君。『月光』という雑誌をご存知だろうか? そう、ひょっとしてレズビアン雑誌かもしれないと囁かれたあの本。読んでない人はバックナンバーがネットにあるので、注文されたし。(「雑誌 月光」でググってね。東京都立図書館の東京マガジンバンクにもバックナンバーがあります)。
『 月光』は、主な読者はたしかに女である。しかし私は何度か言った筈だ。「 レズビアン」と『月光』読者の「ビスクドール」は似て非なるものであると。心理学的に言えば、レズビアンは感情が抑圧されており、「ビスクドール」は感情を湯水のように使うという、根本的な違いがあるのである。
具体例をあげよう。概してビアンには芸術的創作力というものがない。絵は描かないし、歌も下手。高音がでないし、気持ちもこもっていない。小説にしても、ビアン小説を書いているのはビアンではなく、ノンケである。ビアンは頭がいいから、コミュニティの代表は最低でも大学院修了。大学教授もかなりいるのではなかろうか。思考力と感性のバランスがとれておらず、極端な思考寄りなのである。
一方 、『月光』の読者、つまりビスクドールのほうは、学習能力が弱いわけではないが、理屈よりもカン頼み。競馬の予想もデータではなく、帽子の色で決める。
ある日、私は友だちと競馬を見ていた。すると彼女は立て続けに3度、帽子の色で予想を的中させた。いずれも3着以内に入ったのだ。後日、私たちは別の友だちと3人で、府中の東京競馬場へ行った 。私と予想屋の彼女は赤い帽子の馬の複勝を千円づつ買った。
ところがこの馬、全然人気がないのである。スタートしてもビリに近い状態。だが直線になって奇跡が起こった。まさかのごぼう抜き。千円が五千円になった。「当然の結果」と涼しい顔の二人。だが帽子予想の的中はこれが最後となった。
「ビスクドール」は現実よりもカンを重視するため、宗教にハマりやすいし、精神病になりやすい。キリストが甦って死体が消えたという聖書の記述は、現実的に解釈すれば誰かが死体を隠したとするのが合理的だろうが、死んだキリストの幻影とカンを重視すれば、甦りが「当然の結果」となる。さらに歴史的には、(フロイト『人間モーゼと一神教』)キリスト教の起源は古代エジプトに遡る。神官モーゼが仕えていたアメンホテプ四世は一神教であり、エジプトの慣習としての甦りが、キリスト教の主要な信仰の対象となったと思われる。
キリスト教についてフロイトはこう言っている。要約すると、「天上のパンと地上のパンがある。しかし、天井のパンは食べられない。だから、耐えようではないか」。つまり、無神論である。
また、カンの重視は精神病につながる。たとえば、「誰かにつけ回されている」というカンを重視しすぎると、それが妄想(注察妄想)にまで発展する。また聖書は、現実よりもカン重視である。「空ゆく鳥を見よ。紡がず働きもしない。それなのに神はかくも美しく装わせて
くださる。人間にそれ以上のことをしてくださらないはずはないではないか。だから、何を
食べ、なにを着ようかと、心を惑わすな」。詩人といわれるルカの記述である。働かなくていいと言っている。極悪指導者のポルポトでも、働かなくていいとは言っていない。また聖書は言う。「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」。いまほど貨幣経済の時代ではなかったとしても、現実的にこれを受け入れるのは困難である。でも、中には気づくひともいるのではないか? 汚職だらけの政治家さん、詐欺師のみなさん。どうだろう? この言葉を噛みしめてみたらどうか?
聖書を読んで統合失調症になった患者を私は知っている。聖書は、現実的思考的に見れば怪しい記述に見える。しかし、感性的に見れば古代人の知恵に溢れている。
では、どうしてレズビアンは女が好きなのだろうか。それは彼女たちが、ふつうは女の持っているものを持っていないという単純な理由による。つまり、思考力が発達している分、感性が欠落しているのである。抑圧された感情は無意識でとぐろを巻いている。それが火山のマグマのように、いつ噴出するかわからない。つまり、理由も語らずに急に怒り出したり、奇行に走りだしたりするのだ。
ただし、これは人や、おそらくは状況によってかなり違う。テレビに出たり、youtubeで動画配信しているようなビアンは、まともに感情表現ができそうである。だからといって創作は目立つほどしないだろうし、ましてやビスクドールに興味を抱くなどというのは、まず考えられない。
つまり、セクシュアリティは、趣味にも少なからず反映するということだ。『月光』の読者たちのほとんどが知っているビスクドールは、19世紀にフランスを中心に作られた、二度焼き(ビスク)の磁器製の人形である。高度な職人技の産物であり、現代の技術をもってしても、同じ物は作れない。
ビスクドールは高価である。生粋の職人肌だったピエール・ジュモー(ビスクドールは工房の名で呼ばれる)は家が建つほどの値段がついている。ピエールの息子エミール・ジュモーは大量生産のため、値段はやや下がるがやはり名作。その他A・T、ブリュ、アーモンド・マルセルなどが有名。磁器とはいえ、人肌を思わせる色艶。当時流行の服の優雅さ(当時、人形はファッションを伝えるためにも使われた)。まるで生きているかのようなビスクドールに、『月光』の読者たちは魅せられたのだった。
彼女たち「ビスクドール」と「レズビアン」はまさに対極的な存在なのである。しかし、こんなにもセンスが異なっていた場合、互いが浅はかに見えてしまう。「レズビアン」はそれほど審美眼がないので、成人になっても人形ごっこをしているような女には辟易とするだろうし、「ビスクドール」側としては測り知れない感情の闇をもつビアンが怖くて仕方がない。
世の中の多くの女は、幼いころは鋭い感性を持ってはいるものの、大抵は男と付き合うことになる。男とうまく付き合っていくためには、かなりの程度、その感性を犠牲にして妥協しなければならない。幸か不幸か、結果としておかしな宗教にもハマることなく、精神病も免れる。いわゆるマジョリティである。
「ビスクドール」はマイノリティではあるが、いわゆるセクシュアル・マイノリティの型には当てはまらない。お嬢様育ちの結果として、男の捉え方はもう滅茶滅茶である。なんでも自分の都合がいいように考えてしまう。「ホモにあらざる者、人に非ず」というような感じになってしまうのだ。いわゆるボーイズラブの世界観である。でもそれは、実際に付き合わないからどう捉えても矛盾が起こらないというだけの話。究極のダレ専(同性ならだれでもいい)とかパンセク(性のありかたを問わずに愛する)ではないかという人もいるが、当たっていない。
「男は知性、女は感性」というが、その極端はあまり誉められたものではない。大学で自由を謳歌していた私は、学問を究めようと大学院へいってエライ目にあった。先生も生徒も、まるで子供。そこはマザコン坊やの巣窟であった。
感性豊かな女といえば、聞こえはいいが、やはり度を越すとろくなことがない。私が「ビスクドール」を書いていた頃、ひと月で仲間が5人もおかしな新興宗教にのめりこんでしまい、あせったことがある。
やはり何事も、過ぎたるは及ばざるが如し、ということか。
(参考)
ビスクドールが見たい方はこちら。ゴーチェが88万円かあ。安い(買えないけど)・・・